つぶや記 100
1億総ペダンティスト
いわば自然体で、うつむき加減でやってきたつもりの「つぶや記」も100回を迎えました。新聞コラムの名手といわれた人が、「ミカン箱の上に立ったつもりで」と、書き手の立ち位置を説いていたのを記憶しています。「君らは知らないだろうから教えてあげる」といった思い上がりはいけないと教えているわけです。
わたくしは新聞1面のコラムで「つぶや記」の勉強もさせてもらっています。新聞社きっての書き手が筆力を競う看板コラムですから、読む価値のある文章であることは間違いなく、ミカン箱の上からの定点観測を感得できる考現学的時事エッセイでもあります。知識として教えられることも多いのですが、最近各紙のコラムの調子が、古典その他の文献から言葉を引いて、ものの見方、考え方を述べるといったていの内容が多くなった気がしています。
つまり博覧強記ぶりを競っている感じがあります。それはそれで面白く、勉強もさせられるのですが、度を超すとペダンティック(衒学)な嫌らしさに陥ってしまう。数十巻の重く分厚い百科事典を繰らなくても、このごろはインターネットという文明の利器が普及して、ヤフーだとかグーグルとかの電子エンサイクロペディアが無料で気軽に引けます。1億ペダンティスト時代の到来ですか。新聞のコラムに衒学的気配がただよいはじめたのも、どうやらそれを反映しているように思えてならないのです。他人の言葉でなく、自分の言葉で、後世のコラムニストがそれを引用したくなるような創造的文章を期待するということで、「つぶや記」子の自戒もこめて、100回の辞とします。 (古川 薫)
つぶや記 99
反省と非難と
このたびの福島原発事故について、事故調査・検証委員会の報告に衝撃を味わいました。思わず怒りさえ覚えるのであり、その「報告」を伝える文言が非難調になり、その非難の矛先が関係する個人に向けられるということも、成り行きということかもしれません。
非常事態を迎えた人為現象の最たるものとしては、例えば戦争があります。そこにはあらかじめ想定していた状況と、従来思いもつかなかった事態が渾然として現れるのであり、それへの対処の方法が、間違っていたことが後になって判明してきます。日露戦争終結後、作戦の誤りが次々と指摘されて行きます。旅順要塞攻撃だけでなく、奉天大会戦でも、作戦齟齬の責任は、大本営にも現地総司令部にもあったわけで、事後その責任を隠蔽したり、他に転嫁したりの軍人らしくない言動も見られました。
神でない人間に完全無欠な行動を期待することはできないので、誤りは率直にみとめ、反省して未来に備えようという「検証」を試みたのが、谷寿夫中将『機密日露戦史』でした。
これは公刊されたのではなく、士官学校の作戦教育のいわば教科書だってのです。その機密文書が第二次大戦後、公開されたのでした。NHKの大河ドラマ『坂の上の雲』の特に陸軍に関しては、この『機密日露戦史』を、資料として、しかも個人的非難の史観で書かれた小説を脚色したしろもので、史実に知識のある人々からは、不満の声もあがっています。テレビ・ドラマのことですから、あまりメクジラ立てることもありませんが、原発事故をめぐる検証が、非難でなく反省でなければ、建設的な意味を持たないという教訓は浮かんできます。 (古川 薫)
つぶや記 98
マニフェスト
先般、北九州大学の公開講座で乃木希典のことを話しに行きました。私が話している途中、真ん中あたりの席に陣取った初老のご婦人数人が、声高に私語を始めました。
しばらく経ってもやまないので、私語をやめてくださいと注意しました。座がしらけるんですね。たいていの場合、がまんするのですが、ひどい時には怒りをもって、言ってやります。
後でわかったのですが、その人たちは、わたくしが大学側の要請であらかじめ配布したレジュメの記述と、話の内容が一部違っていることを指摘して騒いでいたということでした。
大学では、学生が受講を選択する参考にシラバス(講義実施要項)を作成しますが、公開講座で配るレジュメは、シラバスなどではないので、話が脱線して横道にそれることはあり得ると、わたくしは考えているのです。それにどちらかといえば、脱線するくらいが話は面白いはずです。しかし世の中にはそんなことが許せない人もいるんですね。だからこのごろは、事前に脱線のことも予告することにしています。
さて、ところでこのごろ、ニュースで「共産党宣言」をさすものだったのを、当世では選挙で政党・候補者がかかげる具体的な公約の意味を、ハイカラな言葉でだれかが言いはじめたらしい。
公開講座のレジュメに文句をつけるほどですから、政党のマニフェスト違反は大問題でしょう。昨今はマニフェスト訂正が頻出、紛議をかもしています。これからは「変更の可能性あり」と「マニフェスト」の末尾に小さく入れておいたほうがよろしいのではありませんか。 (古川 薫)
つぶや記 97
作家とふるさと
昨年の暮れ、韓国の釜山文化財団主催の文学フォーラムに招かれ、行って参りました。わたくしが田中絹代ぶんか館名誉館長で、日本ペンクラブ所属の作家として著作活動をつづけていることからの出席要請であったようです。
釜山市と下関市は地政学的には一衣帯水の位置にあり、姉妹都市契約を結んだ関係で、早くから交流がはじまっていますが、釜山という実質地域をふまえた文学フォーラムは、初めての試みです。
あちらが用意したテーマは「文学と出版の海外進出に対する可能性を模索する先進事例発表」というのと、べつにセッション・プログラムとして「文学と故郷、地域文化のコンテンツとは」および「作家と文学館」というのでした。パネラーは韓国・中国・英国・日本の4か国から参加。会場を変え丸2日間におよぶ熱のこもった討論となりました。釜山の人口350万。われわれの目から見ればうらやましい人の数です。文化活動もさぞかし盛んであろうと思ったのですが、現状は意外でした。ソウルへの一極集中による地方文化の不振は、わたくしたちの抱えている東京一極集中の問題と似ています。
休憩時間中、釜山文化財団代表理事・南松祐(Nam,Song Woo)氏とも歓談しましたが、これを契機にお互いの道をひらいて行こう、いずれ釜山か下関で再会しましょうということにしました。実現の機会を待つことにします。
芸術文化にかぎらず、日韓交流は大事な命題です。領土問題など国家間の厄介な問題はありますが、民間外交による友好親善が解決への近道にもなるのではないか。2日間の文化交流でしたが、そのことを実感いたしました。 (古川 薫)
つぶや記 96
新年武装の登城
長州萩城で、新年の秘儀がおこなわれたことは、つとに有名な話になっていますが、どうやら史実ではないらしいのです。
元日、萩城の大広間。上席家老が殿様の前にうやうやしく進み出て、「いかがでござりましょうや、今年こそは」と言上する。即座に殿様答えて曰く。「いや待て、時期尚早である」
藩史への公式記録などもってのほかと厳重に秘密を守ったとしても、だれかが私的な記録を作って後世に伝えたはずですが、それらしい形跡はまったくありません。
薩摩は早くに「チェスト!関ヶ原」(関ヶ原を忘れるな)という剣術示現流の掛け声となり、幕府からひどく咎められて、慌てた藩が詫びの使者を江戸に送ったことは事実らしいのですが、いかにも陽性な薩摩隼人の気質をあらわした話であります。とすれば萩城のは陰湿な長州人気質をあらわしていることになります。陰湿というのはあまりうれしくありませんね。
関ヶ原の理不尽な戦後処理に関連して、幕府にたいする長州人の怨念が、倒幕のエネルギーになったのは確かですから、萩城の新年秘儀はまことによく出来た話です。
幕府への対決姿勢をあきらかにした文久3年(1863)の元旦、群臣が甲冑に身をかためて登城したことは、『防長回天史』にも書かれています。秘義話の源流はそれかもしれません。
ひるがえって、皆さま今年の元旦はいかがでござりましたか。首相を先頭に、増税々々と勇ましい掛け声の響きわたる中で迎えるお正月であってみれば、無辜(むこ)の国民たる者、甲冑を着て雑煮を食べたい心境、それは史実であります。
(古川 薫)
つぶや記 95
「暴」の年
誰が決めるのか恒例により今年1年を表す漢字が「絆」となりました。3・11震災のときの合言葉になったことにちなむもののようです。禍々しい災害の記憶を刻むにしては、肌ざわりのよい漢字です。
テレビを見ていたら、漢字の本家中国で道行く人々に、同じ趣旨の漢字を書かせていたのですが、まずは「貴」と出ました。瞬間、あれと首をかしげましたが、すぐに「騰貴」という言葉を思い出しました。物価高をなげく庶民の1年間をストレートに表現しています。
「難」というのもありました。超高速h鉄道の大事故や水害など、半分は人災というべき社会現象に対する人民の悲しみや怒りが、その漢字にこめられています。曖昧にオブラートをかぶせた字を持ってくるのではなく、中国の民衆が即物的に嘆き、悲しみ、怒る感情を表現しているのに比べれば、日本人はまことに楽天家であります。
むかし「退却」のことを「転進」などという言い換え語を発明した日本人の得意技で、そこには現実をまともに受け取らず、できれば傷の痛みを少しでも誤魔化そうとする心理が働いているようにも感じられます。
そこで中国人の顰にならって、ことしを表す漢字を「暴」としてみました。大地震、大津波と自然が暴威をふるった年でした。
そして人類が大自然から盗み出し、その扱い方も充分にはできない幼稚な技術、知識で核を弄んだ罰としての悲惨な被害に曝されているのも自然の暴威です。情緒的な漢字では言い表せない現実認識としては、「暴」以外にあるまいと思うのですがいかがでしょうか。 (古川 薫)
つぶや記 94
猫の「ポーちゃん」
晩年、田中絹代は「ポーちゃん」と名づけた一匹の猫を可愛がっていました。このごろ女優が飼う猫といえば、外国種の血統書付きの高価なお猫さまなのでしょうが、絹代さんが飼っていたのは、拾ってきた雑種の日本猫でした。そこが好ましいですね。
1977年(昭和52年)3月、67歳で不世出の女優田中絹代永眠。さて主人亡き後、ポーちゃんはどうしていたかといえば、「田中絹代の忠犬ハチ公」と揶揄されても気にせず、献身的に尽くした仲摩新吉が引取って育てました。ポーちゃんは、この男性のもとで、幸せな一生を終わったのでしょう。
時間があれば、「女優と猫と男の話」を短篇小説にしたいと、以前から構想だけは練っているのですが、まだ果たしていません。
ところできょうは猫の話です。例によって、広辞苑を引きと、実にくわしく説明してあります。興味をおぼえ、それではとわが国初の本格的「普通語辞典」として発行された大槻文彦著『言海』を引き、読みやすく書き換えるとこうなります。
『・・・・・・人家に飼う小さな獣(けもの)なり。温順にして馴れやすく、またよく鼠を捕う。しかれども窃盗の癖あり。形、虎に似て、2尺に足らず。性、睡りを好み、寒を恐る。(略)その瞳、朝は丸く、次第に縮みて、正午は針の如く、午後はまた次第に広がりて晩は再び玉の如し。暗処にては常に丸し」
こんな愉しい辞書ができた時代が懐かしいですね。それは1889年(明治22)のことでした。 (古川 薫)
つぶや記 93
大河ドラマのウソ
大河ドラマ『江』が終わりました。その内容に荒唐無稽なウソ話が仕組んであると、有識者間での非難ごうごうは、毎度のことです。しかし、わたくしは面白く観ました。
民放の『水戸黄門』にそんな非難が起こらないのは、娯楽作品だと承知しているからで、NHKのドラマだから、歴史の教科書のように内容が整えてあるはずだというのは誤解です。
森鷗外はそれを「歴史離れ」と「歴史其儘(そのまま)」としました。後者は史実を改竄しない(虚偽の資料を使わない)という基本的ルールを踏まえる歴史小説の立場です。さればNHKの大河ドラマは「歴史其儘」であるかというと、なかなか微妙であります。鷗外の史伝類にも虚構の部分があるわけで、大筋において史実が担保されていれば、史劇として許容できると、わたくしは思っています。
準大河ドラマというのでしょうか。NHKの『坂の上の雲』を観ていますが、かなりの粉飾がある。それもよいではないかと面白く観ていたのですが、先日の旅順攻撃の回では、決して許されない史実の改竄があるのに驚きました。28サンチ砲を「送るにおよばず」と第3軍が大本営に返電したのは、文言の捏造であることが立証されているにもかかわらず、これが採用されていました。いわゆる「乃木愚将説」の根底に関わるもので、原作の故意をうかがわせる問題の箇所をそのままにしているのは、それこそが「歴史其儘」に反する作劇者の芸術的良心の欠如といわざるを得ません。いろいろ残念なこともありますが、おしなべて大河ドラマは面白くあります。
(古川 薫)
つぶや記 92
古典の日
ある国会議員の先生から聞いた情報では、目下「古典の日」制定の話が進んでいるようです。
以前、フィンランドを旅した時とき、この国の民族叙事詩『カレワラ』が、どこの本屋でも売っているのに感心しました。それも各国語に訳した廉価普及本が、山と積まれているのでした。日本語訳はありませんでしたので、英語版を買って帰りました。フィンランドには≪カレワラの日≫があるのです。
『カレワラ(Kalevala)』 は、東フィンランドに伝わる歌謡を採録、再構築したもので、1835年(日本天保6年)に刊行されたのですから、そう古いものではありません。
天地創造に始まり、キリスト誕生に対する男子生誕で終わる物語は広く愛誦され、ついに国民的叙事詩としての地位を占めました。わが国でいうと、さしあたり『平家物語』にあたるところですが、鎌倉時代に成立した古典は、作者不明で国文学上、叙事詩の市民権は与えられていません。
しかしこれはあきらかに国民的叙事詩に位置づけてもよいものです。下関市の赤間神宮には旧国宝(戦災で一部焼けたので現在は重文)『長門本平家物語』が所蔵されています。「古典の日」制定の要望は京都から出ているので、そこでいう古典とは『源氏物語』など一連の平安文学の作品群を対象としているのでしょうが、『徒然草』など鎌倉時代の名作もふくまれることは当然で、『平家物語』も「古典の日」を契機に、国民の関心を強めていくでしょう。来年のNHK大河ドラマ『平清盛』ですから雅な平家文化とともに、世界に誇る日本古典文学の花が一斉にひらきそうです。
(古川 薫)
つぶや記 91
2歩前進は文明
中国を旅していて、面白い言葉に出会いました。いわく「2歩前進は文明」という教えですから、これは日本人男性諸君にも伝えなければと思いました。ほかでもありません北京で使った男性トイレの話です。
用を足していると、目の前の壁に「1歩前進―向井前 2歩前進―文明」と書いたプレートが貼り付けてあるのでした。男性便器の床が濡れているのは、東西いずれの国でも同様で、わたくしの経験では、紳士の国イギリスでも、やはり公衆トイレの男性便器の床がタレコボシで、濡れているのを見た記憶があります。
中国ではそれがひどいと言ってみたものの、日本でも負けてはいません。映画館のトイレは急いでいるせいかビショビショで、それが少ないのを物色して用を済ませるというていたらくです。一応は分かっているのです。もっと体を前に進めればよいのに、衣服が便器に触れるのを嫌い、1歩前進で済ませてしまう。便器の床を濡らしているのは、非文明のなげかわしい象徴として、「2歩前進―文明」の呼びかけとなったのでしょう。
いきなり明治時代の古い話になりますが、児玉源太郎が陸軍大尉になり、大阪鎮台の副官として赴任してきたときのこと。将校集会所の便所が薄暗いせいか、床がよごれるので「前に進んでやれ」と張り紙がしてある。それを見た児玉は烈火のごとく怒り、「いやしくも兵隊の範たるべき将校の不名誉ではないか」とその張り紙の撤去を命じたという話が残っています。
百年後の今も男性トイレでは相変わらず非文明の状況がつづいているわけで、自戒もふくめ以上中国旅行の報告といたします。(古川 薫)
つぶや記 90
『一命』に失望した
カンヌ国際映画祭に出品、落選した日本映画『一命』を観ました。この作品の原作は、わたくしの親友滝口康彦(故人)の『異聞浪人記』です。
『切腹』と改題して小林正樹監督により映画化、昭和37年(1962)同じくカンヌ国際映画祭に出品して審査員特別賞を受賞しています。
主演の仲代達矢さんとは、先般佐賀県多久市での滝口康彦文学碑の除幕式でお会いし、1時間ばかり話す機会がありました。
この映画の中で主人公の津雲半四郎と彦根藩家老(三国連太郎)との緊迫した会話が圧巻で、そのことについて仲代さんが熱をこめて語っておられたのが記憶にのこっています。それで気付いたのは脚本(『切腹』の脚本は橋本忍)の役割です。脚本によって原作は新たな作品となり、監督がさらに新しい生命を吹き込む。そして俳優。この4者一体となって傑作が生まれるということです。
率直に言わせてもらえば、『一命』の4者は『切腹』と比べものにならないと申し上げたい。次に腹立たしいのは、今度の国内上映でこの作品がヨーロッパの人々を「驚愕、震撼」させたと宣伝しています。むこうの人々も先刻知っているハラキリの、それも竹光(竹で本身をすりかえた模擬刀)で切腹する超残酷場面を作りだし、それを売り物にしている底の浅いしろものであることを、みずから告白するような宣伝文句でした。
原作が内臓する「葉隠」の武士道精神を全体として表現した前作『切腹』に拍手したヨーロッパの人々に、志の低さを見抜かれてしまったのです。
海老蔵さんの演技にも首をかしげました。やはり映画では、仲代達矢に遠く及ばないという感じでした。わたくしが悔しいのは滝口の秀作が、このような姿で惨敗したことに対してです。 (古川 薫)
つぶや記 89
痛みとの戦い
先日、宇部市の全日空ホテルで「中部日本整形外科・災害外科学会学術集会(会長山口大学医学部田口敏彦教授)があり、名古屋以西の医学者、開業医千数百人が集まりました。わたくしは文化講演として『面白き事もなき世を面白くー高杉晋作のメッセージ』と題する話をさせていただきました。
この学会のテーマは「運動器の痛みを識る」となっています。高杉晋作は幼少のころから詩人として立つ志をいだいていました。それは果たされませんでしたが、少年時代から死ぬまでの13年間に、約400篇のすぐれた漢詩を遺しています。
最晩年の詩の一節に「恨むらくは、我、少年の日、兵を学んで詩を学ばず」と、戦闘者として生涯をとげることを嘆いています。『面白き事もなき世を面白く』という彼の辞世は、常に不幸感に満たされるこの世への恨み、そしてそんな世を精一杯面白く命を燃焼したと、後世に語りかけるダイイング・メッセージであったのです。「恨む」という心の痛みを訴えた晋作の話は、ちょっぴり学会の趣旨に沿ったつもりですが。―――
医学でいう痛みとは、むろん肉体的な痛苦ですが、精神性の痛みもふくまれるわけで、人間はいつも何らかの痛みに襲われている生き物です。
IT技術の発達で、痛みという実に主観的、抽象的な病理も計測できる日が近いそうです。「恋の悩み」もそのうち病院で治療できる日がくるでしょうか。それともやはり「お医者さまでも草津の湯でも」ですか。こんどの学会で大阪大学の池田光穂博士の『痛みの比較文化論』という特別講演があったことを迂闊ながらあとで知りました。紀要ができたら、素人の好奇心で一読したいと思っています。 (古川 薫)
つぶや記 88
ヴァイオリン協奏曲
先日、下関の映画劇場シアター・ゼロで『オーケストラ!』という作品を見ました。パンフレットを紛失したので、詳細なデータを紹介できませんが、出演者はロシア人です。ロシア映画かというと、一味も二味も違うのですね。
どうやらブレジネフに潰されたらしいボリショイ管弦楽団のOBが数十年後、パリで再編成、問題の「チャイコフスキイ・ヴァイオリン協奏曲」を演奏し大成功をおさめたという成功譚ですが、それだけでは面白くない。そのヴァイオリンを弾いた女性は、ブレジネフを批判して追放され、シベリアの流刑地で死んだユダヤ人女性ヴァイオリニストの娘さんだったことがわかる。ひそかにフランス人として育てられ、父母は交通事故で死んだと教えられていた本人が、その演奏の過程で真相を知るというストーリーです。
久しぶりに感動した映画でしたが、これがアカデミー賞の対象にならなかったことが不思議でなりませんでした。以前、『おくり人』がアカデミー賞で脚光をあびる直前、3人の観客しかいないシアター・ゼロで観たことがあったので、こんどもそんな結果となるのではないかと期待しましたが、それっきりになってしまいました。
その後、我が家の書庫を探したところ、危うく廃棄処分になりかけていた同曲名のLP盤がありました。しかもハイフェッツのビクター赤盤です。なけなしの小遣いをはたいて買った思い出の逸品、少し針音は気になりますが、映画の感動を再現してくれました。最近この曲にこだわっているのですが、10月末の毎日新聞で第80回日本音楽コンクール・ヴァイオリンの部で優勝した東京芸大3年の藤江扶紀さんが弾いたのがこの曲だと知って、また聴きました。むろんビクターLP赤盤で。 (古川 薫)
つぶや記 87
アップルと映画
先日、米国巨大電子機器アップル社のスティーブ・ジョブズ氏死去のニュースが世界を駆けめぐりました。
アナログ世代とは、たとえばジョブズ氏の生死と何の関わりもなく、パソコンなどとも無縁の生活をして、別に生きることの支障を感じていない人々のことです。
ところでデジタル映像技術の驚異的な進歩を見ていると、映画という世界はこれからどうなっていくのだろうと、ふと首をかしげるのです。多数の映画館を集合させたいわゆるシネコンなど、アナログ世界の殻をつけた映像施設ですが、それはそれでよいのかもしれません。
アップルのジョブズ氏は、毎朝、家を出るとき鏡にむかって、「きょうが最後の日になる。何をなすべきか」と自分に問いかけたといいます。
江戸時代初期に成立した『武道初心集』の冒頭には、「武士たらんものは、日々夜々、死を心に集めておけ。さればいつどのような事態にも対処して大いなる仕事をなしとげられる」という意味のことを説いています。
最尖端技術の元祖もアナログ的思考を大事な部分として持っていたのです。アメリカのウォール街ではじまった若者のデモは、インターネットで広がりを見せています。彼らが格差是正を唱えているのであれば、これはやはりアナログ世界の基本的な人間の叫びであるという現実が見えてきます。そして巨万の富を得たジョブズ氏のことはどうなるのか、資本主義社会における当然の利益ではあるのですが、貧富の格差につながる富の独占には違いないので、デモの標的になりかねません。まさに混濁の世ですな。 (古川 薫)
つぶや記 86
イギリス艦来航事件
広島大学の三宅紹宣教授から幕末長州史にかんする論文数種をいただきました。衝撃を受けたのはその中の『文久元年下関におけるイギリス艦来航事件』です。文久元年(1861)4月、英国軍艦が下関に来航したことは、諸記録でいちおうは承知していたのですが、4月28日から5月20日まで長期にわたり、一帯を震撼させた大事件であったという認識はありませんでした。
その年2月には対馬でロシア艦ポサドニック号事件が起こりました。これは8月まで居座り農民一人が銃撃されて死ぬなどの事態に、幕府を困惑させているときのイギリス艦下関来航だったのです。そうした当時の状況からすれば、対馬の二の舞を恐れた騒ぎの様相が容易に想像できます。
下関を藩領としている長府藩は、厳戒態勢を敷いて警戒に当たりました。とは言ってもその武装は戦国時代とほとんど変わらないお粗末なもので、2年後にはじまる攘夷戦の結果がそれを物語っています。対馬にはポサドニック号1隻でしたが、下関には4隻の黒船でした。
騒ぎの最中に幕府の外国奉行・小栗忠順が対馬にむかう途中、咸臨丸に乗って下関港に入りましたが、下関でも対馬でも外国艦に相手にされず、江戸に引き揚げていきました。今でいえば外務大臣ですが、当時の日本の国力とはそんなものでした。下関の場合は六連島などに上陸しましたが、騒がせた末におとなしく去り、一件落着となりました。しかし僻地の対馬と違って北前航路の中継港たる本土の一角に異国の軍艦が長期に居座った事件は、長州藩の攘夷行動はじめその後の政局にも重大な影響を及ぼしたと三宅教授は指摘しておられます。これまでわたくしたちが看過してきた文久元年のイギリス艦来に、あらためて関心を呼び集める歴史論文です。 (古川 薫)
つぶや記 85
極秘文書の廃棄
田中絹代が監督した映画『流転の王妃』は、その背景となった史実に触れていませんでしたが、下関で暮らす人々の多くは、中山忠光暗殺事件のことを連想したはずです。
幕府の追及をおそれた長府藩が、いったん庇護した忠光(明治天皇の叔父)をもてあまして暗殺した事件です。長府藩は事件を隠蔽して病死とし、藩史『毛利家乗』にも虚偽の記載をしています。
後日そのことを傍証する文書類が次々と発掘され、いまでは公然の事実として史伝類に明記されています。真実は不滅です。
本藩の萩藩には「二の丸様事件」と呼ばれる極秘の出来事がありました。毛利輝元が家臣の妻を忍者をつかって拉致、側室(二の丸様)に据え、その夫を毒殺させたというむごい話です。二の丸様が産んだ子供が、初代萩藩主秀就です。
つくり話のようですが、厳然たる事実であることを物語る極秘文書が藩の文庫に保存されていたのでした。七代藩主就隆がそれを知って焼却を命じましたが、史臣のだれかが密かに持ち出して保存しました。それが今は県の文書館に収納されています。ーーー詳しくは布引敏雄著『毛利輝元側室二ノ丸様の薄幸』ほか『萩藩閥閲』、および古川 薫著『二の丸様誘拐』(「別冊 文芸藝春秋」平成7年212号)参照ーーー
実は、けさの新聞で沖縄返還をめぐる密約文書開示訴訟の記事を読んだのです。国側がうその説明が露見するのを恐れ、保管していた文書を情報公開制度制定前に廃棄したらしいというのです。その密約文書は永遠に陽の目を見ることはないのでしょうか。いや、そうでもない。心ある人が、後世のために必ず隠し持っているに違いないことを、歴史が教えています。 (古川 薫)
つぶや記 84
高春秋がんばる
老人とは何歳ぐらいからをさすのでしょうか。老人クラブの入会資格は、これまでの常識からいって60歳を過ぎた人ということになるのでしょうが、そう言うと猛反発を食らいそうなこのごろであります。
大正生まれのわたくしなどは、テレビを見ていて、20歳前後の男性が数人のグループを作ってなよなよと体をくねらせるようなダンスをしているのを、何となく苦々しく思うようでは、これを老人というのかなあなどと考えたりするんですが、その若者のクローズ・アップされた表情を見ると、なるほど柔和ないい男なんですね。かつての日本人にはなかったマスクです。女の子が騒ぐのも当然だと、急にものわかりよくなってしまうのは、もう少しみんなに蹤(つ)いて行きたいとひそかに願っているからであります。
それにしても「老人」とは厭なことばですね。ためしに「類語辞典」をひいてみても、50歳から老人としており、「老いぼれ」「昔人」「足弱」などろくなものがない中にひとつおもしろいのがありました。「高春秋」というのです。「後期高齢者」よりずっとすばらしい。
最近、山口国体のニュースで、高春秋の活躍が目立つのはうれしいかぎりであります。59歳の大将がひきいる山口チームの剣道優勝、47歳の馬術優勝、おっと47歳は高春秋まで3年ありますが、このさいは仲間に入れておきましょう。天高く馬肥ゆる秋、がんばれ高春秋!(古川 薫)
つぶや記 83
鬱という現代病
下関出身・佐々部清監督の最新作『ツレがうつになりまして。』をシーモールのシアター・ゼロで観ました。
「うつ」とは鬱病のことです。世情にうといわたくしとしては、「へー、そんなものが映画になるのかいな」くらいの気持ちで、劇場にでかたのですが、ちょっと衝撃を受けてしまいました。友人にそのことを話すと、認識不足を笑いながら「このごろ若い娘さんたちのあいだでは、鬱は一種のファッションで、それにかからないのは鈍感の証拠と思われているらしいよ」などという。
誇張しているのでしょうが、ややそれに近い状況にあるようです。なにかとストレスの多い昨今のことですから、日常的に心の病いに襲われる人々がふえていることはたしかです。アメリカあたりでシック・マインドという言葉が流行したのは、数十年前のことだったと記憶しています。精神病というほどではなく軽い心の病いという理解でシック・マインドと鬱病を同義語と心得ていたのですが、このごろいわれる「うつ」は、かなり深刻な病理性を帯びているらしい。
例によって広辞苑を引いてみました。その第1版には「深刻な悲しみの気分におちいる精神の病気。初老年期などに多く見られる」とごく簡単な説明がしてあります。初老年期に多く見られるとは恐れ入りました。さて第6版になりますと次のように懇切丁寧となります。「気分障害の一型。抑鬱気分・悲哀・絶望感・不安・焦燥・苦悶感などがあり、体調がすぐれず、精神活動が抑制され、しばしば自殺企図・心気妄想を抱くなどの症状を呈する精神の病気。原因不明。(長いので以下省略)」
自殺企図など、映画ではここにあるそのままの症状に襲われる若いサラリーマンの姿が描き出されます。静寂な空気の中で進行するサスペンス・ドラマもどきの映画を、佐々部さんは作ってくれました。鬱病は風邪をひくように、安易にかかる精神病、原因不明、正体不明のウィールスのように忍びよってくるそうです。ご注意を (古川 薫)
つぶや記 82
「山口県下関出身」
大相撲が復活、9月25日に名古屋場所の千秋楽を迎えました。郷土人として胸をなでおろしたのは、なによりも豊真将・豊響の両力士が、角界不祥事の圏外にいて相変わらずの活躍をしてくれたということです。
豊響のほうはスランプに悩んでいるようですが、力のある人ですからそのうち必ず盛り返すものと確信します。豊真将の躍進はめざましく、今場所では大関陣をなぎ倒すなど敢闘、新三役昇進は早くからささやかれていました。
両力士の四股名「豊」は「豊浦」にちなんでいるのですが明治初期、長府藩を豊浦藩と呼んだこともあります。また、仲哀天皇・神宮皇后の宮居を「豊浦皇居」とも呼んでいるように、がんらい「豊浦」は下関市域の汎称でもあるわけで、その四股名をもった力士が、全国に勇名を轟かすのは、まことに痛快であります。
NHKテレビ相撲放送の視聴者は、おそらく100万人を下らないでしょう。「山口県下関出身」という呼び出しアナウンスが、15日間響きわたるのです。幕内2人の郷土力士ですから、期間中30回、3000万人の鼓膜を震わせているのです。認識が浅く、まだ「福岡県下関市」と考えている人が関東以北には少なくないと聞いていますので、山口県の下関市であることが浸透するにちがいないと、他愛のないことを考えたりもいたします。
しかしまずは「市名」ですよ。下関市のPRを果たすこれほどの功績は他に例がありません。それにしては郷土力士への声援がいまいちという感じです。わたくしはここ数年、九州場所の千秋楽に出かけ、多少気恥ずかしい思いをしながらも「豊真将!」「豊響!」と声をからしているのですがーーー。ところで、お2人が土俵でしめす礼儀正しさを、いつも誇らしげに眺めています。勝ち名乗りのとき、賞金がないといかにも不服そうに、後足で砂を蹴るように立ち去る行儀の悪い力士は、八百長、野球賭博事件いらいかなり淘汰されましたが、「山口県下関市出身」の豊真将・
豊響は模範的力士です。敢闘を祈る。 (古川 薫)
つぶや記 81
絹代の赤いハイヒール
先日、俳誌「其桃」(下関市・中村石秋主宰)の田中絹代ぶんか館吟行がありました。ぶんか館3階休憩室に短冊が展示してありますが、送ってもらった句稿の中から、わたくしの好きな作品を紹介させていただきます。
渋団扇赤いグラスを二つ置き 中村石秋
梅雨明けを待たるる絹代の赤い靴 福島 泉
大女優の光陰たたむ扇子かな 川上恵子
赤い靴涼しき顔の絹代かな 井上灯子
絹代愛用の団扇昭和をあふぎけり 池田尚文
青嵐や絹代艶然と銀熊賞 金谷初枝
江戸切子朱盃に透かす夏座敷 坂本悦子
館より出でて夏帽目深にす 角田節子
薫風や琵琶ひく絹代おさげ髪 前田冨美
七月や絹代の赤いハイヒール 田中美智子
絹代館絹代ファンの蛇もきて 山下清子
その後、共同通信社大阪支社文化部記者の上野敦さんが、田中絹代ぶんか館を取材にこられました。映画俳優個人にかかわる記念館は、国内に数ヶ所しかないそうです。それぞれの特色を比べることになるのでしょうが、記事はこの近くでは山口新聞に配信されるはずです。
「この館でいちばん見せたいものはなんですか」と上野記者がわたくしに尋ねられました。見せたい遺品は山ほどあります。わたくしはとっさに絹代のハイヒールを挙げました。「其桃」吟行の3人が絹代のハイヒールを詠んでおられます。
さて大女優田中絹代の偉大な業績を支えた、てのひらに載るほどの21センチの赤い靴が、ぶんか館の展示ケースの一隅から無言に語る人間の命のかたちを、新聞はどのように紹介してくださるのか。楽しみです。(古川 薫)
つぶや記 80
「震災後」
東日本大震災に関する写真雑誌などの特集保存版があれこれ出ているので、2冊ばかり買わせてもらいました。孫たち、またはその後に生まれた者たちが、それらのページを凝視している場面を想像しながら蔵書に加えました。
わたくしは関東大震災の翌々年に生まれましたので、家にはまだ大震災の大型写真画報があって、震災から10年後の少年のころ、それをながめた記憶があります。大人たちの会話に「震災後」といった言葉がしばしば混じっていたことも覚えています。幕末、ペリー来航以後「葵丑(きちゅう)以来」が合言葉になったように、東日本大震災はこれから10年後、いやもっと長い歳月にわたり、時の命題として生き続けるでしょう。
関東大震災は、田中絹代を映画の世界に引き出す契機となりましたが、日本の文化状況にひとつのエポックをもたらしたことは、すでに指摘された通りです。下関には東京からやってきた吉田常夏という文化人が、「燭台」という雑誌を発行、若いころの火野葦平が寄稿し、金子みすゞも顔をのぞけて創作意欲をそそられたひとときです。
大きな異変のあとには、大なり小なり社会変革が見られますが、その最大の事件はやはり戦争でしょう。第一次世界大戦の次には、第二次世界大戦にも現象しました。趣はやや違って「アプレゲール」とはもっぱら若者の放恣で頽廃的な傾向をさしましたが、それどころでない戦後の一大社会変革とむきあうことになりました。
ところで「レジーム・シフト」という恐ろしい言葉があるのを最近知りました。大気・海洋・海洋生態系からなる地球の動態の基本構造が数十年間隔で転換するという学説です。昨今の異常気象を見ていると今がその転換期ではないのか。それが「震災後」とどう重なるのか。その様相が現れるのは、わたくしどもアナログ世代が地を払ってからのことになるのでしょうが、はてどんな世の中になるのか。詮ないことですが興味はあります。 (古川 薫)
つぶや記 79
孫文蓮
下関市の長府庭園には7月中旬に花をひらく「孫文蓮」があります。大正・昭和にかけて下関市長府に田中隆というお金持ちが住んでいました。豪邸はその一部が長府黒門町に遺っています。
孫文が辛亥革命の資金を日本で募ったとき、日本の富豪数人が巨額の献金をしています。田中隆はそのひとりです。孫文は下関にきて田中に会い、感謝のしるしに中国普蘭店の泥炭地から出土した2千年前の蓮の実を4つ、祝儀袋にいれて贈りました。田中の死後、大賀一郎博士の手によって発芽、みごとな花を咲かせました。これを皇居の道灌堀や奈良の薬師寺に移植、「孫文蓮」と命名され、のちに中国南京の中山公園に寄贈されました。長府庭園のそれは南京からの株分けです。
「孫文蓮」は、北京の中山公園にもあります。これはわたくしが1972年(昭和47)に訪中したとき、田中隆の子息から依頼されて寄贈したもので、その後開花したしたとの報告があり、当時の人民日報でも紹介されました。田中隆のことは拙著『海と西洋館』(筑摩書店)に書いております。
ところで9月4日付新聞によると、香港で「孫文と梅屋庄吉展」が催され、長崎市長らも出席しています。長崎には梅屋庄吉の銅像もできて「日中友好」の励みとしているようです。
わたくしが言いたいのは、梅屋におとらず孫文に巨額の献金をした人物は、山口県下に2人もいます。田中隆のほか久原房之助(萩出身・日立製作所の社祖)がいます。やはり当時のお金で総額300万円にのぼる献金でした。久原は孫文の受取証を保存していたので、東京裁判にA級戦犯として出廷したとき、それを提出して放免されています。山口県下には田中隆も久原房之助も、まだ銅像を建ててもらっていませんし、これら大先輩を「日中友好」に役立てようという発想も生まれていません。このご両人はむろん地元にたいしても巨額の寄付をしています。長州人といわず現代人はなべて忘恩の徒ですかねえ。
(古川 薫)
つぶや記 78
水に映る赤い火の粉
Kさんは勢いよく燃え残りの薪を湖水へ遠く抛った。薪は赤い火の粉を散らしながら飛んで行った。それが、水に映って、水の中でも赤い火の粉を散らした薪が飛んで行く。上と下と、同じ弧を描いて水面で結びつくと同時に、ジュッと消えてしまう。ーーーーー
志賀直哉の短編『焚火』 (新仮名づかいに変更)の一節です。夕闇せまる山中湖畔から空に投げ上げた燃え残りの薪が、彗星のような火の粉の尾をひきながら、放物線を描いてゆるやかに落ちてゆく。湖水に映った同じ光の円弧の先端が湖面で交わると同時にジュッと消えてゆく幻想的な情景は、前後の文脈を省略していても、充分に想像をかきたてられます。推敲をかさね、削りに削った志賀直哉の文章見本というべき例文です。
死期が近づいたころの太宰治は、志賀文学を「植木職人」の芸にすぎないなどと毒づきました。修飾語のない平明な文節、センテンスの長短、その配列によって、自然に色づけされた文章に仕上げて行く。たとえばモノクロ写真を天然色にして見せる文章技法は魔術的でさえあります。初心のころ、わたくしは志賀直哉に心酔して、『焚火』を繰り返し書写したものでした。
こんど田中絹代ぶんか館でひらいた文章教室で、わたくしは「文章はこうして書きますというような話は出来ません」と断って、あれこれと雑話めいたことを喋りましたが、少しは看板通り「文章作法」的な内容も盛り込んでおこうと思い、冒頭に掲げた志賀直哉の『焚火』の一節を書き写してもらうことにしました。私の長話より、よほど役に立ったに違いありません。 (古川 薫)
つぶや記 77
赤壁の賦、壇ノ浦を聴く
古くは平安時代の貴族が漢詩文から佳句を選び、曲をつけて朗誦する「朗詠」という遊びがあり、漢詩や和歌なども交えた『和漢朗詠集』(藤原公任撰)といった詩歌集なども遣っています。
近代になって、ヨーロッパあたりでしきりに朗読会がおこなわれ、現代にいたっても決して衰えてはいません。東京では近代文学館主催の朗読会が催されているようです。山口県内では山口市の朗読会が熱心につづけられていますし、下関には「詩を朗読する会」も早くから活動しています。
声に出して読むことで、快感を覚えるのは詩文だけでなく、散文でも同様ですが、とくに和歌・短歌など活字で黙読するだけでなく、名作とされる作品は朗々と音読するにも耐え得るものだということが、耳で聴いていて分かります。
ふつう朗読会は作家が未発表の自作を、少数の人々の前で朗読する会をさしますが、同時に「聴衆」となって耳をかたむける人々もふくめた集会でもあるのです。
8月25日、下関市民会館でひらかれる琵琶演奏者上原まりさんによる『三国志-赤壁の戦い・秋風五丈原』および『平家物語-祗園精舎・壇ノ浦』演奏の夕べは、待望久しき夢の実現です。
『三国志』も『平家物語』も文字で読む場合は和漢混合の散文ですが、叙事詩として読み、かつ耳で聴くべきものです。
宝塚のステージでマリー・アントワネットを演じた上原さんの美声を聴けば、正史三国志65巻を読んだと同じ質量の感動に心を揺さぶられるといえば大げさですが、とにかく三国志を琵琶曲で聴く機会は滅多にありません。ちなみに上原さんの『三国志』は本邦初演です。
(古川 薫)
つぶや記 76
文は人なり
田中絹代は小学校も卒業していませんが、成人してからの文章は、エッセイや手紙などなかなかのものです。この夏、子ども作文教室というのを、昨年にひきつづき田中絹代ぶんか館でやりました。小学5・6年生を対象としたものです。
電子時代の昨今ですが、文章をつづる記述活動と無縁の生活はありえないわけで、小学生時代から文章力をつけておくことが大事だと、親から命じられてきた子もいるようでした。私語したりふざけたりの男の子がそうなのでしょう。
1時間ばかり話してから、文章を書いてもらいました。一応の題は与えてありますが、いきなりでは何をどう書いてよいか分からないではないかとの批判もあるでしょうが、まず各人がどのくらいの文章力を持っているかを把握するためです。一部の例外をのぞいて、どの子どももしっかりとした字で原稿用紙の升目を埋め、600字前後の文章を、起承転結を整えて書いているのです。さらに意外だったのは、ふざけたりして行儀のわるい例の男の子が、短い時間に400字ばかりの文章を文脈に乱れもなく書いているのです。そういうタイプの秀才型がいるんですね。しかし文章は卒なく書いているが、残念ながら情感がない。「花火を見に行きました」というのに、夜空を彩る花火の美しさ、おどろきがつづられてない。つまりマニュアル型の文章です。これから表現指導が始まるのですが、技法にとらわれるとそれ自体がマニュアルになって、文章に魂が入らない。三島由紀夫なども『文章作法』といったものを書いていますが、文章をこう書けといったことにはあまり触れていないのですね。要するに極意は文章以前の精神のあり方なのでしょう。「文は人なり」です。文章は習うのではなく、考えて創るものですね。この講座では、もっぱらお話に力をいれました。 (古川 薫)
つぶや記 75
セミしぐれ
わたくしの住んでいる下関市長府羽衣町の森では、毎年7月14日ごろ、初ゼミの声を聞きます。ことしは迀闊にも聞きもらしました。書斎で耳を澄ますと遠いセミしぐれが、湧くように耳の底で響いていますが、なぜか現実感がないのです。
耳鳴りかもしれない。不安になり、外に出て耳を澄ませますと、セミはたしかに遠くで鳴いているようですが、部屋にもどると、また違う遠いセミしぐれが耳の底でかすかな響きをつづけているのでした。これはやはり耳鳴なのでしょうか。
家の前に車がとまる音は、聞けるのだから、聴覚はまず正常、だとすれば自然の側に異常が起こっているに違いない。とにかく身近なところでセミしぐれが聞けない夏は不気味です。
今から66年前の8月、わたくしは見習士官として兵庫の航空隊におりました。7日の朝、親しくしていた将校のひとりが、そっと新聞を見せてくれました。「広島に新型爆弾」という2段見出しが見えました。「原子爆弾を落とされたということだな」と彼は微妙な笑いを見せて言いました。
その数年前、わたくしが民間人だったころ、新聞でやはり2段見出しの「マッチ箱で軍艦を轟沈」という記事を読みました。原子爆弾の開発を各国で競っているというニュースでした。
「日本も早く原子爆弾をつくって、アメリカをやっつけたらよい」と思ったのはわたくしだけだったでしょうか。先につくったアメリカが、それを広島に落とした、もう神風は期待できないと思いました。敗戦の玉音を聞いた8月15日の正午、直射日光に皮膚を灼かれながらうなだれた頭上から 、耳をつんざくようなセミしぐれが降りかかってきました。残酷な8月の記憶であります。 (古川 薫)
つぶや記 74
テレビ商戦
倉本聰さんの『歸國』を下関市民会館で観ました。。芝居を観て感動の涙をながすなどは、近ごろめずらしいことでした。この劇の原作は、戦時中から兵隊作家といわれた棟田博氏が戦後に書いたもので、サイパンで戦死した将兵たちの亡霊を乗せた列車が、深夜の東京駅にすべり込むという話。
敗戦から10年後の昭和30年、NHKのラジオ・ドラマとして放送されました。学生のころそれを聴いた倉本さんが、「昭和85年」の2010年、原作を脚色したのが、舞台劇『歸國』です。原作は声高に戦争を論ずるのではなく、淡々と一夜の風景を描いたSF小説ですが、倉本さんの脚本は、彼ら「英霊」の目に映った現代の日本がシニカルに描き出されます。
倉本さんのテレビ・ドラマ『りんりんと』については、以前ここに書きました。田中絹代が48歳のとき出演した『楢山節考』を、最晩年に再演したかたちとなった現代版「姥捨て」です。アナログ時代の傑作として後世に遺るでしょう。さまざまな名作を生んだアナログ・テレビは、過去の世界に遠ざかっていきました。「アナログ放送あと××日」などという告示が画面の隅を大きく埋める日が長くつづいた末、7月24日正午消滅、やがて画面は砂嵐になります。ぎりぎりまでアナログにつきあったわたくしもついに切り換えることにしたのですが、デジタル移行のチューナーが無いと電器屋さんがいいます。生産を中止したそうです。古いアナログ・テレビを捨てて、新しく買い替えさせるためのセコイ製作会社の商法らしい。
まだまだ人情をただよわせていたアナログ時代は遠くなりにけり。サイパンから帰国した将兵の亡霊ならずとも、悲しい気分となるデジタル経済大国に日本はなりにけり。喝! (古川 薫)
つぶや記73
光陰矢のごとし
昨年末、日めくりカレンダーをもらったので、ことしは元日いらい1日1枚、A4の大きさのコヨミをめくることを楽しむつもりでした。特大の数字のまわりに旧暦の日付、大安・仏滅など最近はカレンダーから消えた暦注六輝、「昭和以来86年」、「喜びの一日は悲しみの二日に優る」といった日々の処世訓、はたまた前月と翌月の七曜暦まで小さく刷り込んであります。結構役に立ちそうです。
ところが旅行などして帰宅すると、生きている時間の経過を告げるように、過ぎた日付の数字がいやに大きく目に飛び込んできて、疲れを倍増させたりもします。旅行ではなく、忙しさにかまけてカレンダーをめくるのを忘れて数日を過ごすことが一再ならずあります。目を通すまでもなく、1枚ずつめくり捨てるときの気持ちは複雑で、どうかすると、無駄にした時間が紙きれとなって、はらはらと散って行く虚しさを感じることが、加齢とともに多くなります。落ち葉のように軽やかに舞いながら、チリ箱を埋める日めくりカレンダーをながめるたびに、「光陰矢のごとし」という格言を思い浮かべるのです。
そんな日めくりカレンダーなら壁からはずしてしまえばよいではないかと思わないでもありませんが、それでは一挙に大量の時間を放棄するような気がしないでもない。
「光陰矢のごとしとは、人類が発明した最高に残酷な言葉だ」といったのは、多分小林秀雄だったと思いますが、数日ごとにこの残酷な言葉を、日めくりカレンダーをまとめて破り捨てつつ味わっている昨今であります。 (古川 薫)
つぶや記72
ワンシーン・ワンショット
映画監督・清水宏は、田中絹代の夫となった人物です。忘れられない人ですが、どうも印象がよくない。
「試験結婚」ということで昭和2年のいつごろからか社内公認?の同棲生活に入り、2年足らずで破局を迎えました。破局というからには、その別れぎわがよろしくなく、非が宏にあることは、傍証的にも明らかですが、そのために彼が絹代にとって恩人としての存在である事実は薄れてしまっています。絹代の才をみとめ、積極的に出演の機会を与え、東京の蒲田撮影所に行くことを強く勧めたのも宏でした。彼がいなかったら、順調な絹代のその後はなかったかもしれません。絹代ファンもこれだけは、心にとめておくべきです。
こんどテレビで『風の中の子供』を観て、おどろいたことがあります。昭和12年の時点で、清水宏が演出手法「ワンシーン・ワンカット」を駆使しているのです。シナリオでひとつの場面(シーン)として描かれている情景を、平均5秒から10秒のショット(カット)に分けて撮影するのが常識でした。ところがドラマを中断せず、カメラを据えっ放しにして撮るのが「ワンシーン・ワンショット」です。これは溝口健二監督が創造したもので、世界中の映画製作に影響をあたえた画期的な演出法だといわれています。
溝口監督の『残菊物語』で新派の舞台俳優45歳の花柳章太郎が、年若い菊之助を演るとき、クローズアップを避け、徹底的にワンシーン・ワンショットで撮った、その過程で会得したことになっています。しかし『残菊物語』は昭和14年の公開だったのに対し、清水宏の『風の中の子供』は、昭和12年の作品です。つまりワンシーン・ワンショットは溝口より清水が先に手をつけたことになり、溝口神話が崩れてしまいますが、研究の余地ありということですか。 (古川 薫)
つぶや記 71
原作者を無視する無知
7月3日のNHK・BSテレビで清水宏監督の『風の中の子供』(松竹)を観ました。
原作は坪田譲治の同名作品です。譲治は日本の児童文学を代表する作家のひとりで、芸術院会員、昭和57年92歳で亡くなりました。
小川未明と共に日本の創作童話をきりひらいた作家として知られていますが、未明の北欧風ロマンティシズムに対し、譲治は日本的リアリティに裏づけられた子供の世界を描いたとされています。『風の中の子供』は、子供の幻想と大人の現実的な不安をからませた作品で、映画『風の中の子供』は、1937年度(昭和12)キネマ旬報ベストテンの第2位に挙げられています。
わたくしが不満だったのは、この映画を紹介するある映画監督と女性アナウンサーが、原作についてひとことも喋らなかったことです。わたくしがしばしば言ってきたのは、傑作映画のほとんどは、傑作の文学作品が原作となっているとう事実です。はじめて国際映画祭で脚光をあび、日本映画が第1級のレベルにあることを世界に知らしめた黒澤明の『羅生門』の原作は、芥川龍之介の『藪の中』でした。
映画『風の中の子供』を語るのに、原作を無視するのは、日本児童文学の泰斗・坪田譲治の文業を知らない無知からくるものだといわざるを得ません。
ところでこの映画の監督清水宏が、一貫して日本の自然描写と子供の生活を描き、戦後はみずから戦災の浮浪児の世話をし、『蜂の巣の子供たち』が、1948年度(昭和23)キネマ旬報ベストテン第4位に評価されたという紹介もありませんでした。実は田中絹代と結婚した男性であることまでの紹介は不要かもしれませんが、わたくしたちにとっては忘れられない事実なので、次回はそれについてお話しします。
(古川 薫)
つぶや記 70
恩地トミ母子の写真
先日来、講演で「中山忠光暗殺事件」について話しました。内容は事件そのものの経緯と事件後の周囲の動きに重点が分けられます。事件後といえば、忠光が長府藩の手で暗殺された当時、側女の恩地トミがみごもっていたこと、彼女の孫が満州国皇帝の弟愛新覚羅溥傑と結婚したことなどに話が発展します。
田中絹代監督作品『流転の王妃』では、恩地トミのことが、まったく省略されているので、それらを補足する意味もあって、すこしばかり力を入れました。愛新覚羅、中山両家の系図から恩地トミが消されているのは、トミが下関の商人の子であることを、貴族が嫌う理不尽な理由らしいので、ことさら協調しました。
念のため『下関市史』(旧版)の藩政期編を見ると恩地トミが赤ん坊の仲子(やがて嵯峨侯爵家に嫁す)を抱いた写真が載っているのです。やや不鮮明な写真ですが、眉目秀麗といったトミ女の風貌もしのばれるまことに貴重な写真です。よくぞこれを探し出して掲載してくれたと市史編集者に感謝したしだいですが、撮影者や出所があきらかにされていないのが残念でありました。しかし疑いの余地はないようです。
明治のはじめ下関の宮田町に富田重範という写真師がいたのを、稲荷町の大坂屋の当主木村義男さんから聞いたことがあります。幕末、長府藩報国隊の隊士として戊辰戦争に従軍し、北越の戦いで足を負傷して凱旋、下関で最初の写真店を開業しました。
重範の悲願は長府藩の殿様「毛利元周」の写真を撮ることで、それは叶えられたそうですから、長府にいた恩地トミ親子の写真も彼が写したものかもしれません。市史編集者は恩地家から入手したと思われます。ほんとうに貴重な写真を遺してくれた。重範さんにも感謝と言ったら、すこし騒ぎすぎですかな。 (古川 薫)
つぶや記 69
本家争い
金子みすゞは1903年(明治36年)4月11日、仙崎で生まれました。そして1930年(昭和5年)3月10日の朝、下関市南部町の上山文英堂書店の2階で息を引き取りました。服毒による自死でした。26歳、あたら気鋭の閨秀詩人を死に追いやった人々を恨むや切なるものがあります。前後の経緯については研究者にゆずりますが、とにかく作品活動の大方は下関で生活したころでした。
ところで詩人や作家が有名になると、「あの人は自分たちの住んでいるここで生まれた」と誇らしげに言いたて、ときには「本家争い」も現出します。あとでちょっと触れますが、林芙美子の誕生地をめぐって、あさはかな「本家争い」が時に話題になったりします。
さて、金子みすゞのことです。この詩人が多くの人に知られるようになってからすでに久しく、今では国際的に広く知られています。その金子みすゞを広辞苑が搭載しないのはなぜか。みすゞのことを詩人と呼ばず「童謡」詩人とわざわざカンムリをつけるところに問題がありそうです。岩波書店の担当者に尋ねたいところですが、第7版ぐらいにはぼつぼつ登場することになるだろうと思います。現在、広辞苑に載っている下関出身の有名人は、田中絹代・藤原義江・林芙美子の3人です。門司の井上さん(故人)が、伝聞にもとづいて「芙美子は門司で生まれた」と主張、東京の出版社にまで出かけて、全集の年譜の書き換えを申し入れたりしたのは、ずいぶん前のことですが、伝聞でない確固とした根拠がないかぎり、広辞苑はいぜんとして「下関生まれ。」と断定しています。『放浪記』や『一人の生涯』に芙美子自身、「私が生まれたのは山口県の下関です」と繰り返し書いているのを信ずるしかないじゃありませんか。 (古川 薫)
つぶや記68
金子みすゞ
金子みすゞの正確な生年月日を知りたいと思って、広辞苑第6版を引いてみましたが、金子光晴は出ているが、みすゞは見当たりません。
ついでですが、大詩人金子光晴が下関にきたのは大正時代初頭だったと思われます。大正15年12月に新潮社から出た詩集『水の流浪』に、「関門海峡」という詩が収録されています。
「関門は職を失ひ、妻子をおいて、こころは無、ふところも寒い雨の朝、連絡船でわたるには、なんとそっくりふさわしいことか」ではじまるこの詩は、ほかの文人が下関を詠んだ作品にくらべて、あまり明るいものではありませんが、旅人が抱いたであろう下関の旅情を言いあてているようで、わたくしたちの心をなごませてくれます。
さきごろからよく言われるようになった「癒し」ということばを、甘ったれた根性に見えて、わたくしは必ずしも好きになれませんが、こんどの東日本大震災にかぎって、「癒し」の効用といったものの切実な思いをこめた感慨を味わいました。被災者たちに対する物質的な支援はもちろんですが、心に贈る「癒し」こそが最大の義捐であるでしょう。そんなとき金子みすゞの童謡詩は、まるでこのときのために、みすゞが詠い遺してくれたのだとの感があります。
そんな金子みすゞが、広辞苑に載っていないのは不思議な気がします。念のため『山口県百科事典』(大和書房)をあたってみましたが、1982年(昭和57)発行のこの書物にはまだ記載がありません。東日本大震災が発生した当初から、テレビ・コマーシャルでみすゞの詩が紹介されてから、あらためての「みすゞブーム」となりましたので、ひょっとすれば広辞苑第7版には登場することになるかもしれません。この項つづきます。
(古川 薫)
つぶや記 67
定点観測
「定点観測」という言葉は、辞書で引くと「海洋上の定点で行われた連続的な観測」とあります。もともとは気象観測の用語らしいのですが、動かない場所からの冷静な状況観測という意味で使われてもいます。錯綜した社会現象に取り巻かれたこんにちにおいては大事な視点と言えましょう。
すこし話は飛躍しますが、戦地におもむく若者の母親が歎き悲しむ深刻な場面を、テレビ・ドラマが描いています。例外もあるでしょうが、当時の日本の母親は悲しみを必死に隠していました。
松竹映画『陸軍』は敗色濃い昭和19年、田中絹代出演の作品です。出征して行く息子の隊列を追う母親の行動、表情をこれでもかとばかり映し出した長いシーンが評判になりました。軍当局は上映禁止を考えたようですが、逆効果と判断して、苦々しげに許したのは、それが国民のあいだでひそかに認識されている真実であることがわかっていたからです。戦時色渦巻く世相の陰に隠れた母親にスポットをあてる定点観測を敢行した映画人木下恵介の冒険的作品でした。
さらに話は飛躍しますが、6月2日に政府は社会保障の改革案に、消費税を5%から10%に引き上げる方針を明記しました。それを報道する記事は、菅内閣不信任決議案の派手な記事のうしろに小さく隠されてしまいました。ある社説は、「普通なら、翌日の国会で大議論となりそうなものだが、参議院予算委員会の質疑は菅直人首相がいつ辞めるのか、のほぼ一点に集中した」と書いています。
一連の動きは国民を忘れた政争でしかないことを指摘しているのですが、1面トップの重要ニュースであるべき消費税率大幅引き上げは4面にまわって、政界大騒動に一点集中です。いつの世にも求められるのは「定点観測」であります。
(古川 薫)
つぶや記 66
関門海峡発電所
田中絹代をはじめ藤原義江も林芙美子も、下関で生まれた人たちは、原風景である関門海峡への郷愁を、それぞれに語っています。
下関と関門海峡は太古から深いつながりの歴史を生きてきました。内海航路、国際航路としての機能は、現代にも引き継がれています。
この関門海峡に新しい役目を持たせようという発想は、潮流の利用です。関門海峡の巨大な潮流の潜在エネルギーは、長い歳月にわたって放置されてきました。
下関にきた坂本龍馬は、関門海峡を通航する仰山な船舶をみて、馬関商社の設立を思い立ちました。福島原発事故を契機に自然エネルギーによる発電に関心が集まった今、彼がいたら関門海峡水力発電所を興そうとするのではないでしょうか。
関門海峡の潮流を利用しようとする発想そのものは、ずいぶん以前から取りざたされていましたが、当時では電力需要が切羽つまった状況になかったせいもあって夢物語りに終わっていました。
ところが5月26日の山口新聞によると、北九州市と九州工業大学が、関門海峡での「潮流発電機」の実証実験に2011年度から取り組むとのことです。思わず快哉を叫んだのですが、「下関海峡」のほとりにいるわれわれとしては、指をくわえてそれを見ているわけにはいかないではないかとの思いもあります。
関門海峡の流れで出来た電気が、九州をうるおすのであれば、西中国の電気をまかなう下関側にもそれができてもよいではないか。潮流のはげしい巌流島あたりに、適地がありそうです。「関門海峡巌流島発電所」というのはいかがですか。発電という新しい機能を加えた21世紀の関門海峡は、もはや夢ではなくなりました。
(古川 薫)
つぶや記 65
薩長連合
九州新幹線の開通で、下関と鹿児島が超特急で直結された事もあって、「薩長連合」という4字熟語がしきりに目立ってきました。テレビ・ドラマ『龍馬伝』の影響も尾を曳いているのでしょうが、21世紀のこの時点で、薩長連合が具体的にどんな役割を果たすのかは、これからのお楽しみというところでしょう。
当時、薩長関係の大きな特徴は、両藩が極度な対立関係にあり、その膠着状態の解消が新しいパワーをみちびき出したのです。つまり成り行きの展開をうながすのが、対立・矛盾の超越であることは、古今東西の歴史にみられる弁証法的現象です。たとえばお隣の中国でのかつての「国共合作」とは、国内での政権をめぐって抗争中の2大勢力が、話し合いによって一時休戦し、一致して日本軍事力に対抗した合理的行動です。
さて、東日本大震災という国難を迎えているわが国の政界に、震災を奇貨とする国民不在の力学がただよっているとすれば、甚だ遺憾としなければなりません。中国嫌いの人には、耳障りなことばでしょうが、「国共合作」という言葉をつい思い出してしまうのです。そもそも政党が権力を追求する人々によって組織された政治結社であるかぎり、どのような状況下でも対抗政党の打倒をめざすその本質が発揮されるのは、一応当然としなければなりません。しかし与野党に限らず、国民の同意を得て、一定の権限を持つ地位を与えられているという政党の大前提からすれば、ある意味で私的結社であり、国家機構の一部ではあり得ない政党のエゴイズムは、戦争と同様の大震災という国難の前で、自ずからその行動は自己規制されるべきです。今はひたすら「薩長連合」でやってもらいたいですな。 (古川 薫)
つぶや記 64
煙突の見える場所
なつかしい映画『煙突が見える場所』をテレビで再見しました。1953年
(昭和28年)、五所平之助監督による新東宝作品。60年ばかりも前の映画ですが、場面々々はかなり鮮やかにおぼえていました。そして21世紀の現代にも生きつづける五所監督の感性というものをあらためて確認しました。
作品論とは別に、半世紀の歳月、わたくしの加齢で付加された記憶の量が、さまざまな連想を拡大してゆくのが、実に面白くありました。
登場人物を演じた役者さんの大半が、すでに泉下の人です。田中絹代、高峰秀子のほか往年の名脇役中村是好の顔ともずいぶん久しぶりの体面でしたし、高峰秀子の恋人役芥川比呂志に、父親芥川龍之介の顔がそっくりかぶさっていると、当時うわさしたことも思い出しました。
わが国初の本格的トーキー劇映画は『マダムと女房』(1931年)で、主演が田中絹代、そして監督が五所平之助でした。音の出る映画ということで、ふんだんに日常の雑音を入れた『マダムと女房』でしたが、22年後の作品にも生活音をたっぷり聞かせるところ、五所監督の茶目っけかもしれませんが、「スクリーンから音が出るんだ」という意識が、まだ映画人にあったのだということも思いました。
さて、何といっても特別な感慨をもよおしたのは、田中絹代と上原謙のことでした。メロドラマ『愛染かつら』の恋人同士が、祖国の敗戦を境とする15年間をへだてて、貧しい小市民の夫婦を熱演する姿に心を打たれました。ついでに申しますと、お二人のあれ以来のそれなりな加齢と演技力の格段の進化を発見しました。かばかりのことも、オールド・ファンにはなつかしいのであります。 (古川 薫)
つぶや記 63
窮鳥懐に入れば
先日、 田中絹代ぶんか館で田中絹代監督の映画『流転の王妃』特別展を催しました。監督じしんの生まれ故郷下関に直接関わりがあるのは、この作品だけです。しかし残念ながら、この映画に下関は登場しません。
ヒロイン愛新覚羅浩さんの祖母に当たる人が、下関出身ですから、ストーリイの前史にあたる部分はまったく触れられてないのは、残念というより不満でありました。愛新覚羅溥傑氏の著書に掲げられた系図からも、恩地登美女の名は消されています。商人の子だからでしょう。わたくしはこの映画そのものの出来ぐあいも不満で、絹代作品として並べることも心苦しいとまで考えています。原作者の浩さんが、撮影現場に付っきりで口出しされるので絹代さんも大変だったと聞き、やはりそうだったのかと納得せざるを得ませんでした。
浩さんの祖父にあたる公家の中山忠光(明治天皇の叔父)は、天誅組の乱の大将として幕府のお尋ね者となり、逃げて長州藩を頼ってきました。藩主毛利元周ははじめ大切に忠光を保護しましたが、幕府の追及が厳しくなると、もてあまして暗殺したのです。「窮鳥懐(ふところ)に入れば猟師も殺さず」といいますが、保身のため、ついに殺されてしまうのも浮世の悲しさ。長州の大楽源太郎も保護者の久留米藩に暗殺されました。
最近、ウサマ・ビンラディン殺害のニュースが飛び交っていますが、パキスタン政府は彼の隠れ家を黙認していたのではないか、パキスタンの軍部が殺害に関わっていたのではないかという説も出ています。ともなればこれも「窮鳥懐に入れば」の現代史悲劇ということですか。大統領の口から「殺害した」というおぞましい言葉が出るなど、まさに乱世の様相を痛感するこんにちです。 (古川 薫)
つぶや記 62
原作者不在の芸能界
前回、大河ドラマ『樅の木は残った』の再放送についてお話したのですが、東日本大震災とのからみで紙幅がなくなりましたので、2回に分けました。
『樅の木は残った』は40年前の作品ですから、出演者の顔ぶれは、まったく懐かしいの一語に尽きます。もう故人となった俳優さんも多く、なお健在の人々の相貌にも風雪のあとがただよって、感慨深いものがありました。田中絹代さんが、原田甲斐の母親役で出ています。絹代さんの素顔に近い老いの美しさに、あらためて打たれました。吉永小百合さんも出演しています。また尾上松緑、森雅之、加藤大介、花沢徳衛、岡田英次といった名優、ベテランそろい踏みの豪華番組です。
先日、田中絹代ぶんか館に来訪された栗原小巻さんは、主演の平幹二郎氏ら関係者と、放映終了後の座談会で当時の思い出を語っていました。ロケの場所がこんどの津波によって、跡形もなく消えてしまったという話も出ていました。座談会ではこの作品のすばらしさが口々に語られましたが、原作者のことにまったく触れられないのは、ああいつものことだなと、わたくしはこのときも嘆息しきりでした。
『樅の木は残った』は、山本周五郎氏の作品で、伊達騒動を新視点でえがいた傑作歴史小説です。従来、原田甲斐は、伊達騒動の悪玉として語り伝えられ、この事件を脚色した歌舞伎『伽羅(めいぼく)先代萩』でも、原田甲斐は仁木弾正(にっきだんじょう)の名で悪人の巨魁として暗躍し、最期に殺されます。
山本作品は原田甲斐を、大藩取り潰しを計る幕府の謀略に抵抗し、お家安泰の犠牲となった外様大名の忠臣とする悲劇に仕立てています。近代史観に立つすぐれた文学作品の巧みな発想が、このドラマを成立させている事実を、制作者も出演者も心に刻みこんでおくべきです。原作者不在の芸能界に不満を呈した上で、『樅の木は残った』への賛辞とします。 (古川 薫)
つぶや記 61
津波と伊達騒動
NHKのBSで昭和45年の大河ドラマ『樅の木は残った』を再放送していたので、面白く鑑賞させてもらいました。これは仙台藩の伊達騒動を描いた作品ですから、こんどの東日本大震災の中心地ともなった仙台地方にちなんだ企画と思われます。(NHKのその意図があったというのはわたくしの独断です)
終わったころ別のデジタル放送の画面に、クリント・イーストウッド監督(俳優)の東日本大震災にたいするお見舞いの言葉が出ましたので、ほんの少しおどろきました。わたくしの見聞の狭さかもしれませんが、アメリカの映画監督個人のお見舞いがめずらしいと感じたからです。しかしすぐにあることを連想しました。あることとは、イーストウッド監督が巨額の制作費をかけ、早くもアカデミー賞候補の呼び声が高い最新作のことです。いよいよ全世界で公開というとき、東日本大震災の突発で、しかもこれが津波を主題とする映画なのです。不幸な偶然の一致でした。当然、自粛ということになったようですが、永遠にお蔵入りというわけにもいかないでしょう。巨額の投資にたいする利子もまた膨大な数字にのぼるショー・ビジネスのきびしい事情もあります。
イーストウッド監督の大震災見舞いの広告が出たところをみると、公開近しの予感はありますが、仙台の被災にちなんで、『樅の木は残った』を再放送することの意味と同列には考えられません。へたをすると「奇貨おくべし」というふうにとられかねません。
伊達騒動をあつかった史劇には、死をもって主家を救ったサムライ原田甲斐の生きざまのすがすがしさや、女人の秘めた恋の美しさもえがかれていて、人の心を癒す要素はあるといえます。イーストウッド監督の作品が、単なる娯楽でなく、悲惨な現実に対応する思想をいかに感動的に表現しているかによって、解釈は分かれるのですが、なかなか微妙な問題ですね。 (古川 薫)
つぶや記 60
失われた北国の春
この原稿を書いているころは、一生懸命に咲き香っていたわたくしの家の庭のソメイヨシノも葉桜に変身しています。樹齢約40年、すでに老木で、枝の何本かは枯れ、植木屋さんにたのんで年毎切り落としているので、太い幹だけとなって、かつての優雅な枝ぶりは姿を消してしましました。隣接した児童公園から、こっそり眺めさせてもらっていますという近所の人もおられましたが、均整がやぶれ、不恰好な老桜を、わざわざ見にくる人もいなくなりました。
いっそのこと伐ってやるのがよいのではないかと、思ったりもしたのですが、枯れた枝を補うように直径50センチばかりの幹から直接生えだした細い鉛筆ほどの新芽が、ちゃんと2、3輪の花をつけているのを見ると、伐採するのがためらわれ、こうなれば全体が朽ちて倒れるまで、大地にしがみつかせておこうと思うに至りました。来年も馬蹄形磁石の両端に砂鉄を吸いつかせたような桜の風景が見られることでしょう。
桜の季節になると、わたくしらの世代になると「万朶(ばんだ)」という満開の桜を表現する語句を思いうかべます。辞書を引くと「多くの垂れさがった枝」とあります。もはや死語に近いことばです。今ならさしあたり「爛漫」ですが、これだって使い古したものとはいえ、満開の桜にはピタリの表現でしょう。
『春琴抄・お琴と佐助』の田中絹代が、爛漫の桜を背景に近づいてくる華麗な場面を思い描きながら、ことし寿命が少し長かった桜の話をしているのですが、いやおうなく残酷な光景を想望するのも残念というほかはありません。東日本大震災では、何十万本、いや何百万本もの桜の木が、津波の激流に根こそぎやられる惨状を現出しました。東北はこれから桜前線が近づくはずでした。失われた北国の春のことにも思いを馳せながら、こちら南国の桜の季節は終わりました。まさに「四月は残酷な月」であります。 (古川 薫)
つぶや記 59
春雪に若き命を疑わず
子どものころ「彼岸過ぎても七雪あり」と、聞かされたことがあります。おそらく3月末、めずらしく雪が降った日の話題で、まだまだ4月に入っても雪は降るものだと教えられたのでしょう。春雪と呼んでその詩情を喜びもするのは、雪の少ない温暖な場所で生活する人間の特権とでも申しましょうか。
ところで『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』は、江戸時代の天保期、越後に住む鈴木牧之(ぼくし)という人が書いた随筆で、雪の緻密な観察記録を主題に、雪国の風俗・習慣・言語を伝えています。吉田松陰の『東北遊日記』にも北越を旅するとき、これを新潟の書店で手に入れ、夜の宿で読んだことが書かれています。
牧之はその中に、「降る雪をは花にたとえて、酒食音律の楽しみを添え、絵に写し、作詞して喜ぶのは、雪の浅い土地の人々のことだ。わが越後のごとく、毎年、豪雪に見舞われ、雪のために力を尽くし、材を費やし、千辛万苦する人間にとって何の楽しみがあろうか。辺境の寒国に生まれた不幸を痛感し、暖地に生まれた人々の幸せを羨むばかりだ」と歎いています。
ことし4月初旬、東日本大震災のニュースをテレビで見ていると、横なぐりの雪に襲われながら過酷な運命に耐えている被災者の姿は、目を覆うほどのものでした。地震に津波、さらに原発事故と三重苦の上に降り積もる無常の雪を恨むや切なるものがあります。最近ではようやく寒気もおさまってきた気配ですが、七雪ありとすればまだ安心はできません。
南国に住むわたくしたちとしては、せめてささやかな義援金を差し出し、
眉をひそめて寒い国の人々が「千辛万苦」するする惨状を見守るしかありません。一刻も早い死者の収容と災害復旧を祈るばかりですが、被災地の子どもたちの元気な様子、、甲子園で奮闘する東北の少年たちの雄姿にに救われるものを感じます。
「春雪に若き命を疑わず」ーー詠み人知らずーー (古川 薫)
つぶや記 58
4月は残酷な月だ
4月になると、イギリスのノーベル賞詩人、評論家、劇作家、T・S・エリオットの長詩『荒地』の書き出しを思い出します。
ーーー「4月は残酷な月だ」
いや3月こそが残酷な月でした。そして4月にも残酷はつづいています。
今月25日に「筑前琵琶上原まり演奏会」が下関市民会館で催されます。演目は拙著『物語英雄叙事詩・三国志』と『平家物語』、前者は本邦初演です。
昨年からの企画ですが、3月の東日本大震災に遭遇して、中止しようかという意見も出ました。すでにポスターも出来上がり、キャンペーンもはじめていましたので悩みぬいた末に、決行ということになりました。内容からいってもお祭り騒ぎといったものではなく、静謐重厚な琵琶演奏です。
第一部の三国志「赤壁の賦」は、蘇東坡が古戦場を訪れ、楊子江上の笛の音にむせびながら、悲愁の思いを述べる叙情の場面であり、また稀代の名伯楽・諸葛孔明が五丈原で最期をむかえる悲壮な英雄譚を音楽の世界に再現します。
第二部『平家物語』は、物語冒頭の「祇園精舎」および「壇ノ浦」の悲壮な平家の終焉を弾き語る上原まりさんの美声が、海峡の町に響きわたります。はからずも大震災の犠牲者を悼み、「遺響を悲風に託す」鎮魂のうたげともなれば、主催関係者にとって望外のよろこびというべきでしょう。
T・S・エリオットの「荒地」は、第一次大戦後におけるヨーロッパの疲れた精神風土のことで、それからの脱出の可能性を暗示するものとされます。
震災後の荒地からの脱出を祈る弦の響きに、しばしの間、耳をかたむけることといたしましょう。なお、前日の3月24日午後2時から、上原さんの奉納演奏(平家物語)が、赤間神宮神殿でおこなわれます。 (古川 薫)
つぶや記 57
無惻隠之心非人也
東京で発行される新聞から、田中絹代について何か書いてほしいと原稿依頼があったのは、2月初めのことでした。
わたくしの原稿が編集部に着いたのは3月9日で、数日後、FAXで送られてきたゲラには、「次の部分を削らせて下さい」と添え書きしてありました。
「-絹代が女優になりたいと願ったとき、関東大震災が起こりました。つまり映画のほうから、大阪にいる絹代に接近してきたことになります」
田中絹代を語るとき、関東大震災との関係に触れずにはおれないのです。東京の撮影所が壊滅したので、映画会社が一斉に京都に移ってきた。たまたま大阪にいた絹代が、新設の松竹下加茂撮影所に子役で採用された経緯を語るという次第です。
東日本大震災発生により、偶然その話題がかさなったにすぎないのですが、この時期としてはやはり作為が見え透いてきても仕方がないでしょう。「被災者の心情を慮り、せめてこの部分を削りたい」という。
わたくしは快諾しました。気の毒な目に遭っている人をいたわしく思うのは人間として当然の道で、『孟子(公孫丑上)』には「惻隠(そくいん)の心無きは、人に非ざるなり」とあります。
目を覆うばかりの惨状が展開されているとき、安全地帯にいる者にまず求められるのは、惻隠の情でしょう。目下、諸行事が「惻隠之心」によって中止、自粛される一方では、予定決行をめぐる論議も交わされています。「考え方」による千差万別の解釈がありますが、大震災後の惨状は、おそらくこれから長期にわたるでしょうから、際限もなく自粛していては社会の動きが止まってしまいます。そこで一定の「服喪期間」をおくというのも一つの考え方ではないか。その服喪期間をいつからいつにするかは、自ずから人間の良識が決めることだと思われます。
(古川 薫)
つぶや記56
ハレー彗星と田中絹代
「この世での呼吸をはじめて間もないころの自分の頭上を、巨大な流れ星が通過したことに、(絹代は)ふと運命的なものをかんじたのだった」
拙著『花も嵐も-女優田中絹の生涯』冒頭あたりの一節です。ハレー彗星が地球に大接近したのは、明治43年(1910)5月19日でした。絹代ゼロ歳の夏です。衝突はおろか、この有毒ガスをふくむ全長3200万kmの尾を曳く彗星がすれ違っただけで、地上の生物は全滅するとあって、世界はパニックに陥りました。
「そんなことは絶対にあり得ない」とかたく信じ、彗星接近の報道飛び交う中で平然としていた人々もいたわけですが、天変地異にたいしては、いくら恐れても恐れすぎることはないことが、こんどの震災で証明されました。頑丈な岩盤の上に載せた原子力発電所が、自然災害で壊滅することは、ハレー彗星と地球の衝突があり得ないのと同様の安全神話として、わたくしたちは信じさせられてきたのです。
チェルノブイリ原子力発電所(ウクライナ)4号炉での建屋破壊、炉心溶解事故以前、1973年にもスリーマイル島(アメリカ)原発で炉心溶解事故は起こっていたのです。対岸の火事だったのでしょう。
わたくしは1986年の春、ロシアに旅して、キエフにも取材の足をはこぶ日程を組んでいましたが、直前の事故で果たせませんでした。なおも放射能が濃くただよう付近住民の恐怖に引きつった顔が忘れられません。当時ソ連各地の公園などにあった幾何学模様の巨大なオブジェは、あたかもヴォリンゲル博士のいう空間恐怖(『抽象と感情移入』)の象徴にも見えました。まもなくソヴィエト連邦は崩壊したのでした。
公転周期76年のハレー彗星接触は絶対にあり得ないという信念と同様の安全神話に基づく「想定」の原発計画なら、このさい考えなおし、鉛の箱に封じ込めるのが勇断というものかもしれませんね。
(古川 薫)
つぶや記 55
大地震を哭す
大自然にたいする人智の無力、予知能力のなさを、またも深く感じさせられました。「万を越す遺体」といったニュースなど悪夢でしかありません。治山治水は古今を通じて政治の要諦です。「想定外」などと言い訳しながら甚大な被害に泣き、天災には抗すべくもないとあきらめる人智の愚かさは、千年来の悲劇です。
「これで立ち直りかけた日本経済は、また転落だ」と冷ややかな言葉をなげつける外国紙もあれば、危急に臨んで沈着冷静な日本人を称賛し、「彼らは力強く復興をなしとげるだろう」とうれしい励ましを書いてくれる外信もあります。幾多の震災、戦災を克服した誇るべき災異史をわたくしたち日本人は持っています。
震災といえば、今の時点で不謹慎のそしりを受けそうですが、どうしても田中絹代を連想してしまいます。関東大震災で東京の撮影所が壊滅し、映画会社が一斉に京都に本拠をうつしました。絹代が京都の松竹下加茂撮影所に入社できたのは、たまたま大坂に住んでいたからです。悲惨な目に遭う人がいる半面で、人生の転機を与えられる人もいる。非常な明暗を分け合うのも宿命というものでしょう。
関東大震災の歴史が教えることは、震災恐慌など経済界への衝撃のほか治安維持法の制定その他暗い話ばかりですが、わずかに文化面ではある意味のルネサンスを画しました。谷崎潤一郎は、関東大震災を機に関西へくだり、上方の伝統文化に親しみました。田中絹代の芸名を高からしめた『お琴と佐助・春琴抄』の原作は、谷崎が得たその収穫のひとつです。
震災の復興に力を奮い起こしながら、21世紀におけるあるべき「震災後」の画期的な明るみを求めたいと思います。敗戦後の落日を浴びながら、日本人は20年かけて人類初の海底国道トンネルを貫通させ、世界の注目を集めました。わたくしたちの身近なところに、生きた教訓が横たわっています。 (古川 薫)
つぶや記 54
ナイルの騒乱
昨年夏、田中絹代ぶんか館で小学生の作文教室をひらきました。さしあたって作文が苦手だという子どもを対象に、「きょう、この教室にくるまでのこと、道々目に入ったことなどなんでも書いてみよう」という課題を出しました。すると神社の池で亀の死を発見するコント風の傑作もあって、おどろかされました。リアリズム文学は目撃から始まるということを実感させます。
ところで1月29日付毎日新聞夕刊の記事は、衝撃的でした。現在完了形を多用した文体も新聞記事ではめずらしく、【カイロ和田浩明】とクレジットしたその記事を切り抜きしましたので、一部を抜粋してみます。
「各所で街灯が消え、いつもより闇の深いカイロ中心部は、人で満ちていた。路上にはデモ隊の投石が散らばり、焼け落ちた治安部隊車の残骸があちらこちらに横たわる。炎上する警察署内部で破壊音が響く。ムバラク政権の象徴でナイル川沿いにそびえる与党国民民主党の本部ビルも、紅蓮の炎に包まれていた。ごう音を響かせて国軍の装甲人員輸送車が次々に通過すると、沿道の市民は歓声を上げ手を振った。兵士も手を振って応える。・・・・・」
「催涙ガスの発射音と刺激臭が強まってきた。広場に入る。立ち、座り、叫び、語り合う、人、人、人。さながら解放区だ。ガスの濃度が高まり、視界が白くかすむ。耐え切れずに去ろうとする人々に戻れ、戻れと声がかかる。上空を国軍ヘリが舞う。・・・・・・」
目撃者による切迫した描写、現場からの報道は、表現されたときから文学性を帯びています。開高健の『輝ける闇』、ノーマン・メイラーの『裸者と死者』やドス・パソスの『U・S・A』を読むような、時々はそんな北ア、中東からのすぐれたルポルタージュ記事で埋まるこのごろの新聞から目が離せません。 (古川 薫)
つぶや記 53
愛新覚羅家と下関
田中絹代監督作品のひとつ『流転の王妃』がこのほど田中絹代ぶんか館で上映されました。この映画では、嵯峨侯爵家から浩さんが、満州皇帝溥儀の弟・愛新覚羅溥傑夫人として嫁すことから始まりますので、下関と愛新覚羅家との関係は知る人ぞ知るということになっています。わたくしとしては、プロローグとして中山忠光卿暗殺の歴史を挿入してもらいたかったのです。
幕末文久3年(1863)8月の天誅組の乱後、下関に亡命してきた中山忠光(明治天皇の叔父)を、長府藩は手厚く庇護しました。しかし幕府の探索がのびてくると、もてあました長府藩は、田耕(下関市豊北町)の隠れ家に討手をむけ、忠光を暗殺してしまいます。
侍女として忠光につかえていた下関の商人・恩地与兵衛の妹トミは、そのとき忠光の子をみごもっていたのです。生まれた仲子は母親とともに中山家に引き取られます。成人した仲子は嵯峨侯爵家に嫁し、その孫娘が悲劇のヒロイン浩姫です。祖母が商人の娘というのを恥じたのか、ここまでの事情が秘匿されています。
昭和7年(1932)3月、傀儡国家満州国皇帝の弟と日本人を結婚させようという関東軍による「日満親善」の策略が進み、嵯峨浩に白羽の矢が立ちます。あとは映画が語る通りの筋で、浩夫人は「流転の王妃」の苦難をたどり、やがて別れわかれとなった相愛の夫との再会を果たします。
その間、長女慧生の心中(天城山)事件など悲劇もかさなりますが、映画では遺体だけを冒頭に出しながら説明がありません。
昭和62年(1987)6月、浩さんは北京で波乱にとんだ生涯を閉じます。73歳でした。一族の廟所「愛新覚羅社」が下関市綾羅木町の中山神社にあるのは、忠光卿の墓がそこにあるからです。浩さんの著書『流転の王妃』(文藝春秋)、拙著『暗殺の森』(講談社)で全貌が分かることを申し添えておきます。 (古川 薫)
つぶや記 52
江波杏子さんのこと
第65回毎日映画コンクールの田中絹代賞が江波杏子さんに決まり、先日川崎市での授賞式に行ってきました。上背のある江波さんの和服姿に、例の『女賭博師』で脚光をあびた「昇り龍のお銀」を一瞬連想しましたが、そのイメージからは早くに脱皮されたはずでした。和服の似合う人です。
この日、各賞受賞者の受賞のあいさつは、どれも、照れ隠しめいたスピーチに終始し、オスカーの授賞式でのウイットにとんだものではありませんでした。やはり日本人は下手ですね。しかしその中で江波さんのあいさつは堂々とした、まじめな謝辞でしたし、何よりも内容に味がありました。
16歳で大映ニュー・フェースとして入社、その研究生だったころのある日、女学校の制服姿で連れて行かれたところが学習院で、カメラのそばにいたのが田中絹代監督です。昭和35年(1960)、4本目の監督作品、下関とも関係のある『流転の王妃』(大映)に、はからずも江波さんは出演していたのでした。先日ぶんか館で上映した同作品を観ると、たしかに江波さんが生徒の中にいました。彫りの深い(和製オードリー・ヘプバーンといわれた)顔はべつに探すまでもありませんでした。
田中絹代監督の優しく丁寧な指示ぶりの思い出話もあり、映画界に入って、初めての出演が絹代監督の作品だった自分が、その先生の名を冠した賞をいただくことに深い感慨がある云々・・・・など、聞かせる内容のスピーチでした。
パーティーの席上、石坂洋二郎原作『青い山脈』の姉妹篇『若い人』に江波恵子という人物が登場するが、関係がありますかと尋ねると、「母のことかもしれません」とのことでした。この話は別の機会にします。とにかくいい人が受賞されました。いずれ下関にお呼びしたいものです。(古川薫)
つぶや記 51
映画のまち
第65回毎日映画コンクールの田中絹代賞授賞式に行ってきました。会場は川崎市の「ミューザ川崎シンフォニーホール」、すり鉢式の豪華なスタンドは1997席、映画上映設備も完備した羨ましい施設です。
川崎は京浜工業地帯の核心として発展してきた都市ですが、本州西端に暮らすわたくしにとって麻生区に河上徹太郎先生が住んでおられたことか、川崎大師で有名な町くらいの知識しかありませんでした。こんどはじめて訪れたのですが、認識一変いたしました。工業都市の顔とは別に文化都市に塗り変わろうとしているのです。その文化の中心に据えられるのは映画であります。キャッチ・フレーズは「映画のまち川崎」です。
このごろ下関市も田中絹代ぶんか館の開館、盛んな映画祭、また地元出身の佐々部清監督、映画音楽の和田薫氏やグローカル・ピクチュアーズの前田登氏も色を添えて、「映画のまち下関」になろうとしています。
しかし下関にはまだ無いシネ・コン3つを持つ川崎市の取り組みはもっとすごい。平成20年度から「映画のまち」を宣言、①小学校での映像制作。②日本映画大学と連携する取り組み。③高校生による映画館での映画鑑賞。④映像コンテンツ制作推進事業・・・・・・。
以前から川崎市内にある専門学校、日本映画学校は、この春からわが国初の4年制映画大学としてスタートします。小学校統廃合にともなう空き地を利用して、校舎の改築、スタジオの建設も市の全面的協力で進んでいるようです。映画のまちづくり、果たして成果いかにーー。川崎市の話題できょうは終わりです。絹代賞をいただかれた江波杏子さんのことは、次回にまわします。 (古川 薫)









